タロット占いって、絶対インチキだろ。
少し前まで、私は本気でそう思っていました。
だって、よく考えてみてください。裏向きに並んだカードから、たまたま一枚を選ぶ。その絵を見た占い師が「いま抱えている悩み」や「これから起こること」を語り始める。
そこに、いったい何の根拠があるのか。
生年月日のような情報を使うわけでもない。何かを測っているわけでもない。ただカードを切って、引くだけです。私には、それが未来や心の状態と結びつく理由がまったく分かりませんでした。
そもそも、占い自体を信じていなかった
もともと私は、占いそのものを信じていませんでした。
動物占いくらいなら話のきっかけにはなる。でも、それで人生が分かるとは思っていない。算命学、四柱推命、インド占星術、西洋占星術。名前は知っていても、自分とは離れた世界の話でした。
ただ、仕事を通して少しずつ調べるようになると、見え方が変わってきました。
生年月日や出生時刻を使う占いは、少なくとも、誰にでもまったく同じことを言っているわけではありません。生まれた瞬間という動かせない情報を起点に、長い時間をかけて蓄積された型に照らして、その人の気質や傾向を読んでいく。
もちろん、それだけで科学的に正しいとは言えません。それでも「なぜ、その人について語ろうとするのか」という筋道は、以前より想像できるようになりました。
時間を、過去から未来へ流れる一本の線ではなく、すべての瞬間がひとつの時空の中に存在するものとして考える「ブロック宇宙」という見方を知ったことも、大きかったと思います。この話は、別の記事で詳しく書きました。
私は次第に、生年月日をもとにした占いを、少なくとも「考えてみる価値のあるもの」として受け止めるようになりました。
それでも、タロットと易だけは別だった
それでも、タロットや易は別でした。
生年月日は、その人が生まれた時点で決まっています。けれど、カードや卦はその場で出る。シャッフルの仕方が少し違えば、指を止める場所が一枚ずれれば、結果は変わります。
そんな偶然に、自分の人生が分かるはずがない。
正直に言えば、「その場でうまいことを言っているだけではないか」と思っていました。だから、その分野にはほとんど触れてきませんでした。
偶然にしては、できすぎている
考えが揺らぎ始めたのは、自分で占いに関わるサービスを始めてからです。
さまざまな占い師の先生に会い、サービスを良くするために、自分でも何度か鑑定を受けました。その中で、タロットを引いてもらう機会も増えていきました。
すると、ときどき妙なことが起こります。
そのとき誰にも話していなかった悩みに、そのまま重なるようなカードが出る。迷っていた二つの選択肢について、自分が本当は恐れていたことを言い当てられる。示された方向へ動いてみたら、滞っていた状況が少しずつ変わり始める。
一度だけなら、偶然で終わります。でも、似た経験が続くと、さすがに気になります。
「なぜ、このカードがいま出たんだろう」
私は、タロットを信じたいと思ったわけではありません。むしろ、信じていなかったからこそ、説明が欲しくなりました。
カードが映すのは、未来か。それとも自分か
まず考えられるのは、タロットが心を映す「投影」の道具として働いている、という説明です。実際に、心理療法の文脈でタロットを投影法として捉える研究もあります。
タロットの絵には、旅立ち、喪失、葛藤、希望、崩壊、再生といった、人間が人生の中で繰り返し経験する場面が描かれています。けれど、その意味は一つに決められていません。
同じ「塔」のカードを見ても、ある人は失敗を思い浮かべ、別の人は古い環境から抜け出すことを考える。同じ絵を前にしても、何に目が止まり、何を感じるかは、その人がいま置かれている状況によって変わります。
つまり、カードが心の中を直接読み取っているのではなく、カードを見た自分の反応によって、まだ言葉になっていなかった気持ちが表に出てくる。
「当てられた」と感じた言葉の一部は、本当は自分の中にすでにあったものなのかもしれません。カードと占い師との対話が、それを見える場所まで引き上げてくれる。
そう考えると、タロットの不思議さの一部は、心理的な仕組みとして説明できます。
もちろん、曖昧な言葉を自分に当てはめてしまうバーナム効果や、自分に都合のよい一致だけを覚える確証バイアスもあるでしょう。外れた言葉は忘れ、当たった一言だけを強く覚えている可能性もあります。
その疑いは、持っていた方がいいと思います。
ただ、それを差し引いてもなお、「どうして、今日このカードだったのか」と感じる瞬間が、私には残りました。
ユングが考えた「集合的無意識」
調べ続ける中で、私は心理学者カール・グスタフ・ユングの考えにたどり着きました。
ユングは、人間の無意識には、個人の経験から作られる層だけでなく、そのさらに奥に、人類に共通する心の型があるのではないかと考えました。それを「集合的無意識」と呼びました。
神話や昔話に、遠く離れた地域でも似た人物や物語が現れる。母、英雄、影、死と再生。文化が違っても繰り返し現れるイメージを、ユングは「元型」と呼びます。
タロットにも、愚者、女帝、隠者、死神、世界といった、人生のさまざまな局面を象徴する像が並んでいます。だからタロットの絵は、説明を読まなくても、私たちの深い部分に何かを感じさせるのかもしれません。
ここで注意したいのは、集合的無意識は「人間の脳が見えない通信網でつながっている」と科学的に証明した理論ではない、ということです。あくまでユングが、人間の心と象徴を理解するために提示した考え方です。
ユングの生涯と、集合的無意識・元型・影・個性化を含む思想全体は、「カール・ユングとは何者だったのか」で、年表とともに整理しています。
それでも私は、この考え方を知ってから、タロットを以前ほど単純には笑えなくなりました。
原因ではなく、「意味」でつながること
ユングには、こんな体験の記録があります。
ある夜、出張先のホテルで眠っていたユングは、誰かが部屋へ入ってきたような感覚で目を覚ましました。人影はありませんでしたが、額を打たれ、続いて後頭部にも衝撃を受けたような鈍い感覚が残っていたといいます。
翌日、ユングのもとに電報が届きます。以前治療した患者が銃で自らの命を絶ったという知らせでした。後にユングは、弾丸が患者の頭蓋骨の後ろ側で止まっていたと知った、と回想録に記しています。
これは、第三者によって因果関係が確認された科学的な実験ではありません。ユング本人が記した、一つの体験です。
けれどユングは、こうした出来事を、単に原因と結果で結ばれたものではなく、本人にとっての「意味」によって結びついた一致として考えました。それが「シンクロニシティ」、日本語ではしばしば「意味のある偶然の一致」と訳される考え方です。
ユングは『易経』の英訳版に寄せた序文でも、投げた硬貨や筮竹から出た卦が、その瞬間の状況と不思議に重なることを、因果関係とは異なる見方から考えようとしました。
カードを引くという偶然と、自分の内側にある問題。その二つの間に、目に見える原因と結果はありません。それでも、ある瞬間に重なったことで、本人にとって大きな意味が生まれることはある。
私は今、タロットの「当たる」を、少し違う角度から考えています。
カードが未来を知っているのか。それとも、無意識がカードに意味を見つけているのか。そこにシンクロニシティと呼びたくなる何かがあるのか。
正直、答えは分かりません。
分からないものを、分かったふりはしたくない。でも、分からないからインチキだと切り捨てるのも、いまは違うと思っています。
タロットは、答えではなく「問い」を返す
私は今でも、タロットが未来を正確に予知すると言い切るつもりはありません。占い師の言葉に人生を預けるべきだとも思いません。
ただ、タロットには、自分一人では選ばなかった視点を差し出す力があります。
本当に恐れているのは、失敗だろうか。
手放せないのは相手なのか、それとも過去の自分なのか。
いま守ろうとしているものは、この先も必要なのか。
カードが正解を教えるのではありません。そこに描かれた象徴をきっかけに、自分へ問いを返す。その問いにどう答えるかは、最後まで自分の役目です。
そう考えると、タロットは未来を決める道具ではなく、まだ見えていない自分を映す鏡として使えます。
変えられないものと、変えられるもの
生まれた場所も、育った環境も、すでに起きた出来事も変えられません。
でも、その出来事をどう受け取り、次に何を選ぶかは変えられます。
同じ失敗を「自分には才能がない証拠」と解釈することもできるし、「自分に合わない道が一つ分かった」と捉えることもできる。起きた事実は同じでも、その後に見える未来は変わります。
哲学も、宗教も、心理学も、そして占いも、方法は違っても「人生をどう解釈するか」を考え続けてきたのだと思います。
タロットが本当に深層心理とつながっているのか。集合的無意識が、どこまで人間を結びつけているのか。シンクロニシティはただの偶然なのか。
この話は、もう少し調べて、別の記事でも掘り下げたいと思います。
ただ、少なくとも今の私は、タロットを「絶対インチキだろ」の一言では片づけられなくなりました。
大切なのは、カードを盲信することではありません。そこに現れた言葉をきっかけに、自分が何を感じ、何に気づき、これからどう動くかです。
自分の可能性に気づく入口は、一つでなくていい。
その入口の一つとして、占いを使ってみるのも悪くない。いまは、そう思っています。